高橋洵さんを偲んで

平成26年9月  大阪外大山岳会

 山への深いい思いと、そのお人柄から、半世紀以上にわたって大阪外大の山仲間の象徴的存在であり続けた高橋洵さんが亡くなった。平成26年7月4日、78歳だった。それから70余日経った9月13日、高橋さんの生まれ故郷である信州・大町に山仲間が集まって「高橋さんを偲ぶ会」を開いた。
 大町温泉郷・くろよんロイヤルホテルの会場に東西から集まったのは18人。高橋家からは美智子夫人と次男の知征さんが参加してくださった。正面には、最後の山行となった八ケ岳・黒百合ヒュッテ前でのアイゼンを履いた写真を初め、高橋さんの長い登山歴を物語る高校時代からのパネルがずらりと並べられ、大町の自宅で咲いた花々も飾られた。
 会は、高橋さんご夫妻が仲人だったという山田昭一さんの司会で始まり、まず1分間の黙祷。船井総一会長の開会の挨拶に続いて西川毅・元会長が、「癌と壮烈に闘いながらも、山への限りない情熱を持ち続けられた高橋さんに、衷心より哀悼の意を捧げたいと思います」などと、外大山岳部発足当初の山行の思い出を交えながら故人を悼む弔辞を読みあげ(末尾に弔辞全文)、坂田愃さんの発声で献杯を行った。
 続いて次男の知征さんが、7月6日に家族葬をすませた後、世界の植物を集めた「ナチュラルヒーリングガーデン」で知られる大町市内の「アルペンローゼ」で8月27日に、また31日には東京のハイアットリージエンシーホテルで、高橋さんが経営に携わってこられた会社の従業員や友人知人を招いて、それぞれお別れの会を開いたことを報告。「ここに飾られている山での父の写真、特に若いときの写真が実ににこやかな顔をしているのにびっくりしました。私たちには大変厳しい父で、こんな顔を見たことはあまりありませんでした。それだけ、父にとって山は特別のものだったのだと思います。長い闘病生活に耐えた大きな支えの一つが山だったということを改めて感じました」と、高橋さんの父親像の一端を披露されました。
 この後、グリークラブ員でもあった吉永行夫さんのリードで「もしかある日」を合唱、高橋家から差し入れられた地酒などを酌み交わしながら、高橋さんの思い出を語り合った。

 


弔辞全文

 癌と壮烈に闘いながらも、山への限りない情熱を持ち続けられた高橋さんに、衷心より哀悼の意を捧げたいと思います。
 高橋さん、あなたは入山する毎、自然に親しみ、心を清め、母校の山岳部のリーダーを務められました。高校の山岳部員として少年時代から山の素晴らしさと山の恐ろしさを肌で熟知した経験を踏まえて、山岳部の再建に踏み切られました。その事はOGACのHPにあります「山岳部再建の経緯」と題した一文を読み、よく解りました。
 その通りなのです。私達は山には全く素人の集まりでした。その素人集団を纏めそして鍛え上げ、雄途ヒマラヤに遠征する「山の集団」に育て上げられました。外大山岳部もOGACも高橋さん無くしては語る事は出来ません。
 思い返しますと、私もその素人の一員でした。山の経験と言えば2歳の昭和12年(釜)トンネル開通の4年後)、5歳の昭和15年に一家で上高地の小梨平にテント生活し、5歳の時に焼岳に登り、外大に入った30年夏、国民学校からの悪友4人と表銀座を縦走。31年夏池ノ平に幕営。劔を目の当たりにし、峻険・雄大な山容に魅せられた位のこと
でした。
 その池ノ平への途上、明大山岳部一行と出くわし、猛烈な新人しごきをする鬼のリーダーを目撃しました。背負ったザックは一行の中で最軽量。ピッケルの切っ先でバテた部員の山靴を突っ突き罵声を浴びせる。これが山岳部なのか、と驚いたことでした。
 翌32年、創部して初の夏合宿のリーダー高橋さんは、明大のリーダーとは打って変わり、あなたは佛のリーダーでした。パーティー中最重量のザックを背負い、手取り足取りの指導して頂きましたこと、当時の部員は皆記憶にとどめております。高橋さん、あなたが「忘れられない光景」と記された雨の北岳でのこと。バテた部員、私もその一人だったのですが、生の玉葱に味噌を載せた飯盒の残飯をあなたから頂いたこと、今でも記憶の中に鮮明に焼き付いております。
 そこが近所の里山であっても、北アの山であっても、聞こえてきます。山路を辿りながら、また頂から山を眺めては「この曲はバッハのサラバンド、あの山はワーグナーの楽劇の一節」、ガスった山野が雨上がりで徐々にその姿を現す光景は「ベートーヴェンのピアノソナタワルトシュタイン≠フ第3楽章」……。色んな曲が浮かびます。この一文はバッハの「アリア」(管弦楽組曲第3番)で偲びながら認めました。
 高橋さん、あなたをイメージさせる山は薬師岳だと思います。薬師をイメージさせる曲はワーグナーです。懐が深く、全てを包み込んでくれるからです。
 さて、話はかわりますが、山に行けば神さん佛さんに逢える、と私は思っております。神さんは山や磐座を依代に天空より下り鎮座するといわれ、山頂に立ってご来光を拝めば、来迎図にある阿弥陀如来が諸々の菩薩を従え、飛雲に乗って現れ、極楽浄土へ迎え入れて頂けると、古来我が国の人々は信じてきました。またこの国では、人は死ねば神になり、佛になります。私には楽しみが一つ増えました。それは、山に登ってあなたにお会いする楽しみです。



 翌14日は3班に分かれて行動。高橋さんの遺志にそって針ノ木岳頂上やその麓で散骨を行うなどして故人を偲び、霊を慰めた。

 散骨山行は無事に任務を果たして下山致しました。
 吉永、吉田、小林、上島、山田の5名が14日に予定通り6時に快晴の扇沢を出発し、実働5時間の予定が思いのほか早く、休み休みの4時間で針ノ木峠(針の木小屋)に到着。
 大休止のあと頂上に。13時過ぎに山頂に。登山者の多い広い頂上で、人目を忍ぶため暫く時間を過ごし、人が少なくなった頃をみはからって三角点の小山の裏側に5人で少しずつ遺骨を撒きました。小屋に戻り、吉永、吉田、山田の3名は峠から反対側のピークの蓮華岳の往復。蓮華岳からは針ノ木岳が美しく見えました。
 15日は爺、鹿島槍への縦走に向かう吉田と分かれて4名は扇沢へ下山。高橋邸の近くの市民温泉「上原(うわっぱら)の湯」で汗を流してさっぱりしたあと、高橋邸にお邪魔して奥様、御二男夫妻に散骨の報告をして今回のミッションを終了しました。
 天候に恵まれ、高橋さんが爺ヶ岳をバックに写っている写真の撮影現場と思われるところ(通称「のど」といわれる沢上部の狭いところの下あたり)も確認でき、高橋さんが一番好きだと言った針ノ木岳のよさを満喫し、とても楽しく有意義で充実した山行でした。
 高橋さんの遺骨の撒かれた山は即ち高橋さんのお墓ということ。これからは皆さんお墓参りのつもりで足しげく針ノ木岳に出掛けましょう。
 散骨隊を励ましサポート戴いた皆様にお礼申し上げます。
 以上、簡単なご報告です。

(この項、山田昭一記)

 高井、広瀬逸、斎藤、由良、船井の5人は扇沢駐車場から、針ノ木岳への登山道をゆっくり歩いて約1時間。ようやく樹林帯の切れ目から、例年よりかなり少ないという雪渓が視野に入ってきたところで小休止。雲の切れ間を待った。薄くたなびくような雲が少しずつ東へ流れて、雪渓の延長線上に針ノ木峠から針ノ木小屋あたりの稜線が姿を見せた。ほどなく針ノ木のピークが現れた。無言で見つめる5人。船井氏が「高橋さーん」と呼びかけながら手のひらに乗せたお骨を撒く。高橋さんと一緒に登った雪渓の感触を思い出すようにじっと目を凝らす高井さん。
 穏やかな天候にも恵まれ、雲の流れも幸いして、短いながら心に残るお別れだった。

(この項、由良記)

 針ノ木沢で散骨する日帰り組と同じく午前9時に 藤田 坂田 笹木 広瀬組、大藤 西川 中村組(加藤、竹岡さんは先に大町駅から帰阪)は遠見尾根に向かった。
 冬はスキー場で賑わう五竜とおみスキー場。学生時代は数本のリフトしかない田舎のスキー場であったが、いまや老舗の八方や栂池にならぶ大スキー場になっていた。
 ゴンドラで一気に標高1550米のアルプス平駅に。さらに1本リフトを乗り継いで地蔵の頭の直下へ。徒歩15分、大きなケルンの立つ地蔵の頭に到着。五竜、鹿島槍、爺ヶ岳から唐松や白馬もあいにくと雲の中。これらの山はついこの前まで高橋さんが歩いてこられた山域。ケルンに向かい故人を偲びしばし黙祷。
 ケルンから眺める東側は逆によく晴れ渡り、遥かに雨飾や戸隠、志賀高原、浅間、八ヶ岳などの山並みが広がり、これらの山々もまたこよなく愛した高橋さんを温かく迎えているようだった。
 高山植物の咲き乱れる下山道をたどりながらゴンドラ駅に戻り、午後2時、針ノ木日帰り組と合流、再会を約して東西に別れた。

(この項、広瀬記)

 

高橋さんを偲んで寄せられたメール等を以下に再録する(順不同)


掲示板の張り紙で出会う

 誠に残念という他ありません。今はご冥福をお祈りするばかりです。
 思い返せば昭和32年、旧上八学舎の掲示板に「山岳部員募集」の張り紙を見て、応募したのが氏との出合いの最初。旧高槻学舎で前期2年を終え上八で新学期を迎えた頃でした。独語の先生から山岳部を立ち上げたらどうか、との提言で氏が掲示したのだそうです。氏をリーダーとするその年の南ア夏合宿が氏との最初の山行。伊那北駅→(途中一泊)→北沢峠→仙丈→荒九羅→両股→北岳→間ノ岳→農鳥→大門沢→奈良田→(バス)→身延駅(この時の写真数葉がOGAC掲示板に掲載)。
 キスリングに30kg詰めての北沢峠への八丁坂の登りエラかった!登り切って氏の「休憩!」の一声に腰を下ろすやいなやグーっと鼾をかいた加地(F8)。北岳から間ノ岳縦走中は天候悪化。「玉葱に味噌を付けて囓れ!」氏の号令で寒さをしのいだことも、良い勉強になった。
 下り終え奈良田では「?泉や!」と湯船に浸かって周囲を見ると、あれっ女の人がいる!初の混浴体験もありました。身延へのバス。これがオンボロのボンネット。当時中村メイコの「田舎のバス」がヒットしていて、これをもじって車中♪奈良田のバスはオンボロ車…♪他に乗客のいないのをいいことにし、声を上げて歌ったり。その日は列車の便がないので駅前でテント泊。食料は殆ど消費していたせいか、近くを野良犬らしき風情がウロチョロしていたのを見て、誰だったか「赤犬は食えるでぇ」。動物タンパクに飢えていたのだろう。
 あれもこれも想いは尽きませんが、山岳部草創期の一端をつづって氏の供養といたしたいと思います。
 ご存命中にお会いしたかったのですが、小生の九つ下の弟がC型肝炎から4年前肝臓癌に移行。5月下旬には「治療は終了」と告げられ、緩和ケア病棟に移り、6月30日息を引き取りました。大阪市内には89歳の独居の姉もおり、何かと気ぜわしく立ち回っている最中に届いた氏の訃報でした。

西川  毅

 

感謝でいっぱい

 高橋さんには在学中には歩き方の「いろは」から教わり、またOGACに参加させていただいてからは、アルプスに何度もお連れいただいて思いもかけない老後の楽しみをあじあわせていただきました。本当に感謝しております。
 体調のお悪い中、最後まで献身的にお世話された奥様がお元気になられますようにと
願っております。

高井 和子

 

大阪外大山岳会の皆様

 高橋さんが逝ってしまった。今朝奥様と30分ばかり、いろいろ話した。心より哀悼の意を表したいと思います。
 彼と一緒に行ったのは、積雪期の五竜→鹿島槍縦走。鹿島槍東璧と遭難。南ア北岳。丹沢蛭が岳。針木。夏の南アルプス縦走など。それに、カラコルム、チョゴリサ峰の事務局を場所と共に引き受けて貰った。
 西前さんと一緒に行った、穂高各ルート(徳沢→三峰リッジ→前穂→奥穂→徳沢のワンプッシュなど)。剱の各ルートのロッククライミング、冬の剱、穂高。利尻東稜。
 この二人との山行は今も肌にぴったりとくっついたように、思い出されます。これで、冬山で一緒だった高橋さん、西前さん、奥田君、橋本君、皆逝ってしまった。この4人は私の山の青春と切っても切れない関係だった。
 台風一過の抜けるような青空を見ながら、深い哀惜の念に深く深くはいりりこんでいます。
 学生時代は六九町の高橋さんのお父さん、お母さんにも大変お世話になりました。掘りごたつに入って、思い存分食べさせて貰った野沢菜の味がまだ舌の上に残っています。奥さんにも公私ともにお世話になりました。奥さんの話によれば身内ですべての仏事を大町で終えられたと言うことでした。
 私は悲しみは悲しみとし、四人の分まで山、パミール中央アジア、ゴルフ、翻訳、奈良探訪に頑張ろうと思っています。最後にもう一度、高橋さんの霊安らかならんこと、衷心よりお祈り申し上げます。

田村 俊介

 

高橋洵さんを偲んで

 来年に、傘寿を迎える年頃になって、山の友、幼なじみや、会社勤めでお世話になった方々また趣味で知り合った人々などの、ご逝去の知らせが多くなり、悲しみとともに、懐かしい思い出が蘇える日々です。
 その中でも、最も悲しく、つらいのは「山の友」の逝去の知らせだと思います。今回の高橋さんのご逝去の前にも、山行を共にした西前、村上、百瀬、奥田などの諸兄が既に旅立たれていて、改めて世の無常を感じています。
 さて、高橋さんは、大阪外大山岳部の復活に先頭にたって尽力され、素人同然のわれわれ部員のリーダーとして、山のイロハを教えてくれました。
 夏の南アルプス合宿は、重いテントやアメリカ軍の中古シュラフ、食料をキスリングに詰め込んで、だれかが倒れて、休めの合図が出るのを待ちに待って歩いたものです。
 冬のスキー合宿や針ノ木岳春山登山は、私にとって、初めての経験であり、その後の山行の基礎技術を体験させて貰ったと云えます。スキー訓練の後、野沢菜を戴いた高橋さんのお母さんの笑顔や雪で埋もれた大沢小屋を掘り起こし、スキーとワカンで大雪渓を登ったことが懐かしく蘇えります。
 いずれにしても、大和の金剛・葛城山の山麓で生まれ、高校時代に名ばかりの山岳部に所属していた私にとって、日本アルプスと向き会うことで、大きな感動と山への情熱に取りつかれた第一歩であり、その後の山行の原点になったと考えています。
 今振り返ると、高橋さんは、部員の体力・経験を考えて最も適した山行計画を作成してくれたと思います。また、山での行動中などで、大きな声で怒鳴るようなことは全くなく、自分が最も重いキスリングを担ぎ、いわゆるシゴキには程遠い、和気あいあいのクラブだったと思います。現在のOGACにも、高橋さんの、優しく大らかな精神が伝統となって脈打っていると思います。
 話は変わりますが、彼の登山時の所作について、昔の岳人のおもかげを垣間見て、懐かしく共感を覚えたことが多々あります。
 新田次郎氏が、64歳で剣岳に登頂されたが、1年遅れの65歳の平成12年9月に、宮崎、中村、小林の諸兄で計画を立て、高橋さんに連絡した所、室堂まで出向いてくれました。雷鳥坂を登り、別山乗越付近で休憩をした時、高橋さんは、着ていた白いカッターシャツを脱ぎ、ハイ松にかけて乾かし出したのです。昔の山男は、皆やったものです。その夜は、剣山荘に一緒し、翌朝高橋さんと別れ、われわれは、剱岳から早月尾根を下山しました。
 また、平成20年にOGACの新年集会で、吉野の明神平に登った時には思わぬ雪で、高橋さんは、手拭いでほっ被りして、寒風を避けて登っており、その姿恰好は、学生時代と変わっていないなと、1人ほくそ笑んでいました。
 最後に、高橋さんに、心配と御苦労を掛けたことがあり、改めて霊前にお詫びと御礼を申し上げたいことがあります。
 平成21年10月末に、西川、中村兄と南八ヶ岳を歩いた時に、宿泊予定の渋御殿湯の手前で、渡渉場所が増水で渡れず、また携帯も通じず、やむなくビバークをした際に、留守宅では遭難騒ぎとなり、高橋さんには、茅野警察署や留守宅との連絡などに多大のご迷惑をかけました。
 以上、ながながと追悼の言葉を述べましたが、散骨が、鹿島槍などでなく、針ノ木岳で行われるのは、高橋さんが一番好きだった山であり、また我々とともに最も思い出深い山だと云えます。どうかこの地で安らかにお眠り下さい。合掌。

加藤多嘉志

 

高橋先輩の思い出

 65歳になった今、中国から一時帰国する度に女房との間で「おい、あれどうなった? あれッ。」、「あれじゃ分からないでしょ。あれって何のこと。あれのこと?」なんて禅問答が飛び交うようになり、脳の記憶回路の閉塞が部分部分進む中での高橋先輩の思い出話となりますことご容赦頂き、正確なところは山田、船井、小林、吉田など同輩の修正をお願いしたいと思います。
 最初に高橋先輩にお会いしたのは、現役時代に谷川岳一の倉沢の第三ルンゼ(雨で撤退)に行った帰りだったと思いますが、何人かで東京に出てそれから電車を何回か乗り継いで最後は地下鉄東西線で三鷹のご自宅まで押しかけ食事をごちそうになりました。丁度夕方のラッシュアワーで周りの乗客は相当臭い思いをした筈。(多分そのまま泊めて頂いたと思いますが、この辺り記憶あいまい。) この時の印象は、東京の夕方のラッシュアワーに山帰りの疲れた足で長い時間(という感覚)立ったまま電車に乗り、ただただ「ああ、東京でサラリーマン生活するのだけはコリゴリ。高橋先輩、東京でよく我慢しているな。」ということだけでした。
 その次お会いしたのは、私が外語卒業後三井物産本店勤務になってからのことでした。この時もご自宅に一人でお伺いしたのか岳友と一緒だったのか記憶があいまいですが、私が物産に入った時は高橋先輩は既に退職されていましたので、ご自宅で夕食をごちそうになっていた時に「高橋さん、どうして物産を辞められたのですか?」という質問をしたところ、「上司がくだらねえこと言うから、辞表を叩きつけてやったんだよ。」という答えが返ってきました。
 その時とても印象に残ったのは、高橋先輩の辞表を叩きつける(ゴリラのような)仕草ではなく、その話を横でだまって聞いておられた美しい奥様が終始にこやかな表情でうなずいておられたことでした。《えぇー、旦那が物産を辞めたのに奥さん全く動じた気配がない》ということで、高橋先輩を全面的に信頼されておられたのか、或いは《この宿六全くどうしようも無いんだから》と諦めておられたのか聞き漏らしましたが、社会生活を始めたばかりの私にとっては衝撃的な感動を覚えたシーンであり、将来奥様のような素晴らしい女性に巡り合えたらなあ、と強烈な思いに駆られたというのが2回目の思い出でした。(済みません。全然高橋先輩の思い出話になっていません。)
 それから数十年後の2000年、51歳の年に、今度は私自身が高橋先輩のマネをして上司に辞表を叩きつけて物産を去ることになるとは、その時は勿論想像だにしていませんでした。
 昨年2月と4月に岳母、岳父が相次いで他界しましたが、二人は戦後ずっと三鷹に住んでおり、三鷹は私の女房の里、私にとっても24歳で大阪を離れてからの第二の故郷でした。又、高橋先輩が亡くなられた野村病院は奇しくも私が毎年人間ドックに入っている病院。(たまたまこの2年はさぼっておりますが。) 至近距離におりながら中国駐在にかこつけ、高橋大先輩に永らくご無沙汰ご無礼しましたことが申し訳なく心残りです。ご冥福を心からお祈り申し上げます。合掌。2014年8月6日 

槇野喜代志(1973年C卒)

 

故高橋さんを偲ぶ

 京都で生まれ育った。家の近くに衣笠山などがあって、子供のころからよく遊びに行った。中学生になって少し範囲を広げ、愛宕や鞍馬あたりまで遠出した。いわゆる京都北山の最前線の山々である。高校時代には山岳同好会的なものを作り、北山荘や麗杉荘、多くの炭焼き小屋のお世話になった。毛布と飯ごう、米、味噌などをもって週末などによく出かけた。比良山が一番の遠出であった。
 多くの京都の人たちが惹かれるように京都北山は一種独特の雰囲気を持っていた。前衛的な登山ではなく、逍遥派とでもいうような雰囲気であった。
 受験で東京へ行った帰り道にわざわざ中央線に乗った。高校時代に愛読した田部重治著の「山と渓谷」などの山岳紀行文に惹かれて甲武信岳などが見たかったからだ。ついでに北アルプスも見たかった。富士山にはさして驚かなかったけど、甲府や松本から見た2000〜3000米の山並には正直驚いた。まさに天を仰ぐ思いであった。
 このとき、大学へ入ったら必ず登りに来ようと思った。
 外大に山岳部があるのかどうか不安であった。最初に目がついたのがワンゲルだった。結構にぎわっていた。山岳部とあまり変わらないのではと思って、かんたんに入部した。そして木造の食堂へ向かったら、「山岳部員募集」と書いたポスターを貼った受付があった。あれ?山岳部もあったのか、と思って近づくと、やたらでかい顔のおっさんみたいな人とにこやかな笑みを浮かべた兄貴みたいな人が手招きして、「どうや、山岳部に入ったら?」と声をかけてきた。
 「今、そこでワンゲルに入ったばかりで・・・」「そんなものかまへん。やめたらええ」「はあ、ほなはいります」。
 えらくかんたんに翻意したのを覚えてる。後で分かったけど、そのときのスカウト隊が高橋、坂田さんであと、菅生さん、神崎さんがいた。たぶん、瞬間的にこの人たちに京都北山の逍遥派の雰囲気を感じたのだと思う。決してアルプスの岩山などにあこがれたわけでなく、深山幽谷に分け入り、仙人郷に浸る気分だった。
 私がOGACに縁ができたのはまさにこのおっさん(高橋さん)と兄貴(坂田さん)のおかげである。
 その割りに、このお二人とは一緒に登山した記憶がない。垣内さんが落石事故に遭った秋の鹿島槍へ、放置した荷物などを引き上げに行ったとき、高橋さんとたった一回きりの登山をしただけだ。
 入部してからも、訓練地の六甲山が好きになれなくて、訓練をサボっては京都北山を歩いていた。同級生に同じ京都人の鈴木、高畠、穂積がいて、よく出かけた。あまり人の行かない山や谷を、当てもなく歩いてみたり、予定より脱線するほうが多かった。
 今にして思えば、高橋、坂田ご両人と雲の平や朝日・雪倉岳あたりを歩いてみたかった。
 OGACとの縁を作ってくれたおっさんに感謝し、哀悼の意を表します。

廣瀬 州男(IN 38卒 )

 

高橋さんと大町集会

 確か、1997年の春、高橋さんから久しぶりに電話があり、一度山岳部OBを集めないかとの話。それまで、暮れには東京在住のメンバーで東京駅の上野精養軒やステーションホテルのバーで忘年会を持っていたが、それ以外の集まりはまれであった。
 高橋さんのアイデアは場所は大町、高橋さんの会社の新工場の食堂を使ってもいいよ、集まることが第一義だから、安く上げるために山のスタイルで来て、寝袋で寝る。また酒は一人一本持参。翌日は自由行動と概要を決めた。会場はJR安曇沓掛駅の側にある新築のきれいなラインハルト工場。
 分かっているだけのOB・現役に案内状を送付したが、参加者は 高橋、西川、中村、坂田、笹木、百瀬、山田、保野、西沢(外国語学校時代の先輩)の9名であった。1997年4月26日、近くのスーパーで購入したつまみを主体にビール・酒を飲み、食べ、懐かしい面々と久しぶりに再会し、賑やかだった。後はカラオケ室でカラオケ、西前さんの「もしかある日」を静かに歌い、数々の山の歌を大声で歌った。酔っぱらって、食堂で早々に寝袋に潜り込むもの、夜を徹して飲み続けるものといろいろだった。
 翌朝、高橋さんの奥様がごはん、漬物、味噌汁を食堂までお持ち下さり、おいしい朝ごはんをいただいた。その後、高橋さんのお宅にお邪魔し、庭で写真を撮った。残雪に輝く後立山が本当にきれいだったので、改めて山登りを再開したものが何人かいたようだ。
 ただ、何年か後の大町集会で高橋さんのお宅にみんなが泊まった折、翌朝布団を誰も片付けないでそのままにして退出してしまったので、後から高橋さんにひどく怒られた。それ以降、高橋さんのお宅で泊まることは遠慮することになった。その後、西川さんを会長にOGACとして関西で正式に発足することになり、現在に至っている。

(2014/8/30記)

坂田 愃 (大R9)

 

昭和32年夏山合宿

 思い出深い山行はいろいろあるが、大阪外大山岳同好会として昭和32年の夏山合宿南アルプス縦走が私にとって最も印象が強い。
 なにしろ、私を含めて、ほとんど山登りを経験したことがない連中(主として1回生、2回生)が夏山合宿を行おうというのだから。服装から、装備から、山登りの心構えからすべて教えてもらわねばならなかった。山岳同好会の会員を募集した当事者である経験豊富な高橋氏(D)にとってこんなど素人を相手に大変なことだったろう。
 夏休みも近くなったある日、どこかの教室に集められて、こういったものを買ってこいと山の装備を見せられた。キスリング、寝袋、登山靴、ウインドヤッケ、その他いろいろだが、すべて初めて目にするものだった。どこどこの山へ登るから、地図はどこどこを用意すること。食糧、味噌、醤油の他にじゃがいも、玉ねぎ、インスタントラーメン、前田製菓のランチクラッカー、銀リスマーガリン、わかめ、渡辺の粉末ジュースの素などなどを出発直前に人数分X日数分を購入する。そのためには食糧計画を作ること。米は一人一日5合だから何日分を個人が準備すること。合宿前の準備にてんてこ舞いとなった。
 田村氏(R),中村氏(R),奥田氏(IN)らと北口山の家に行き、キスリング、キャラバンシューズや米軍放出の中古の水筒や寝袋、そして飯盒を購入した。私の場合、金が足りず、寝袋を買えなかったので、毛布で代用したのだが、仙丈岳直下の幕営では寒くて眠れなかった。食糧は近くの鶴橋商店街で買い整えた。といってもどれくらい購入して良いのかよく分からないので、量はかなりいい加減で合宿中、不足したものがかなりあった一方で、余ったものもあった。
 とにかく総勢15名、高橋氏をチーフリーダーに大阪を出発、塩尻で乗り換え、伊那北へ向かった。時に昭和32年(1957年)7月14日。抜けるような雲一つない青空。たまたま合宿の直前に台風が伊那地方を襲ったので戸台口への道は不通。バスはかなり手前までしかゆかず、そこから各自入山初日の重い荷物を背負い、歩き始めた。米、味噌、じゃがいも、玉ねぎなど重いものばかりだから、フラフラ、ノロノロとかんかん照りの暑い戸台川沿いの道を歩いた。戸台山荘のところでどうにもならずドデン。テントを張ることになった。
 一回生のわれわれが食事当番。釜で飯を炊き、味噌汁をつくる。ワカメを入れたはいいが、事前に水にもどすことをせずに、そのまま味噌汁にいれたため、汁を全て吸ってしまい、味噌汁がすっかりなくなってしまったのには驚いた。あわてて水と味噌を足したものの、味噌汁とは程遠い汁になってしまった。
 翌日、朝早く北沢峠へ向って出発。途中で近道をしようとして変なところに出てしまい、まともな道に出るまでえらい苦労と時間を費やしてしまった。途中で東京女子大のパーティーにすれ違い、彼女らの整然とした歩行にびっくり。夕方、北沢峠に到着。テントを張ってヤレヤレ。北沢峠から甲斐駒ケ岳へサブザックで往復。天気も良く、荷物がないことがこんなにありがたいとは思ってもみなかった。
 その後、仙丈岳、北岳、農鳥岳を経て大門沢から西山温泉に下ったのだが、それ以降は山に慣れ、自分でも山になじんできたのがよく分かった。仙丈岳を過ぎて、両股からの北岳の登りは延々8時間からの急登。奥田氏がキスリングのトップにくくりつけていた釜がはずれ、はるか下の方に転がり落ちて行った事件があったり、倒木にキスリングが引っ掛かり仰向けにひっくり返ったりといろいろあった。登り始めから天気が悪く、登るにつれガスってきて視界はゼロ。早朝に出発したはずなのに、頂上にはなかなか到達しない。上に行くにつれ雨風となり、バテ始めた。それでもようよう北岳3,192m山頂に着いた時にはみんなバテバテだった。私も含めて3・4人がバテてしまい、高橋氏から北岳小屋はもうすぐだから、頑張れと言われても腰が立たない。どっかりと座りこんでしまった。高橋氏が「キスリングに入っている玉ねぎに味噌をつけて食え」と雨風の中でどなった。無理矢理玉ねぎに味噌をつけてかじってみると、辛いこと、何回かかじるうちに体が暖かくなってきて、やっとこさ立ち上がり、北岳小屋に入った。救われたと思った。
 この合宿を機に山岳同好会も次第に形を整え、2年後には正式に山岳部となった。部員も増え、山行も豊富になり、春、夏、秋、冬と四季を通しての合宿となっていった。会社員になってしばらくはあちこちの山に出かけていたが、次第に忙しくなり、また海外駐在が長かったので、山行からは随分遠のいてしまった。最近はやっと落ち着いてきたものの、
ここ数年いろいろと病気勝ちなので山歩きがなかなか出来ない現状である。

坂田 愃 (大R9)


高橋さんと「同行二人」

  高橋先輩と山に登ったのは、うろ覚えだが、40年程前まだ私が社会人2・3年目の頃、外大山岳会山行で岳沢から天狗のコルに登ったとき1回だけだったと思う。
その後、よく存じ上げないのにずうずうしく高橋さんの人格と風貌に惹かれ、仲人をお願いしたら、快く引き受けてくださった。
そこまでは良かったのだが、結婚式も無事終わり暫くして、高橋さんから結婚式の記念写真を貰っていないと言われ、あわてて写真館の追加のプリントを頼みに行ったところ、原版はもう無いと言われ途方に暮れた。
その後、何度か高橋さんから催促されたが、かっこ悪くて本当の事が言えなくて、時間が経つにつれてますます気まずくなって、ついつい疎遠になってしまった。そのうち色々あって山からも遠ざかってしまった。
高橋さんが闘病中と今年のOGACの新年会で聞き、自分の手持ちの写真をスキャナーで撮り、フォトショップで加工してお持ちしようとしたが、なんとなく後ろめたくてそのままになってしまった。
今回、高橋さんをしのぶ会が開催されることを知って、ご冥福をお祈りすることと写真のことをお詫びしたいと思い参加したが、会場で奥様を見かけたとたん、又気まずい思いが充満してきて、会場の隅でタバコを吸って自分を誤魔化してしまった。
それなのに、針ノ木の頂上で高橋さんのお骨を三角点の石柱の周りに撒き、お祈りしてようやく本当にお詫びが出来たような気がした。翌日からの北アルプスの山々を眺めながら鹿島槍までの単独行は高橋さんと「同行二人」と感じながらの山旅でもあった。
私もいつの間にか老人の仲間になってしまった。老人になってからの山の再開、いつまで続けられるか分からないが、北アルプスの山々から高橋さんの山、針ノ木が見えたら、高橋さん共々、己が山に帰っていることを実感することだろう。 合掌

吉田 隆三


高橋洵君の想いで

1)学生時代
 S31年高槻のオンボロ学舎で始めて会いました。後で知った事ですが、同じ予備校で前年に学んでいたことになります。
 雄大な北アの麓から出て来た純朴な青年は、箱庭的な古都や京都人には合わなかったようです。
 彼が山岳部で活躍していたのは知っていたが、登山とは無縁で幼稚園の遠足で船岡山に行った位ですから。比叡山や鞍馬は山ですが乗り物で行けます。
 そんな或る日、山岳部とは別に愛好会として信州の山に行かないかと誘われ、D8の他の二人と行ったのが白馬の大雪渓でした。日本にこんな所があるんだと感激しました。翌年出掛けたのは剣岳でした。立山の山荘に泊まり富山弁の汚さに往生しました。剣では蟹の横這いとか大岩のオーバーハンギングとか死ぬ思いでした。富山地鉄に乗ったお陰で?富山の会社に入りました。
2)社会人時代
  お互いに忙しくあまり付き合いはありません。ある日、彼の紹介状を持った後輩が会社に現れ、カラコルム?に行くので寄付を願いたいとの由、一応一万円を渡しました。
 次は彼から直接電話で、今ビルの下に居るが顔を出せと言うので喫茶店で会いました。浜松町の貿易センタービルです。聞いてみると息子の結婚式場の下見とか。東京会館の式場が39階にあるのは知っていましたが、入ったのは始めてです。先日偲ぶ会で次男にお会いしましたが、その結婚式の当人は彼でした。父親が事前調査に行っていたとは始めて知ったとか。言わないけど優しい父親です。その時始めて神前ならず人前結婚との言葉を知りました。
3)D8八重洲会
 彼が前立腺癌を患ったのはもう9年程前でしょうか、前立腺患者は自分の周りに十指を数えます。ホルモンのバランスが悪いのが原因とされますが、分かりません。男性ホルモン過剰が一因であるのは確かです。これ自体で死ぬのは稀です。問題は転移です。彼の場合は肺からリンパ・骨・神経に転移したようです。抗癌剤治療も18回受けたそうです。我が亡妻は苦しくて三回で止めました。54歳で亡くなりました。原発性不明の癌でした。  
 治療のために月一回慶応病院に通っていました。その都度、八重洲口にあった日本棋院の碁会所で高石長老と打っていました。通称アマ五段の長老に互先で打ったそうです。学生下宿で手ほどきを受けた相手にです。高石・高橋戦のあと、八重洲地下街で食事をするのが通例となりました。四つ足は食べない、赤身の魚は駄目、飯は玄米。制限だらけの飲み屋を永渕兄が探して、オデン中心に食べて、長老と私は杯を重ねました。八重洲会と名付けました。帰りが中央線で一緒だった高橋と話し込んで中野まで乗り越したこともありました。大体 政権批判の話題でした。
4)主義主張
ではありません。思想・信条と申しますか、彼とは合致する面がありました。司馬遼太郎より藤沢周平・隆慶一郎、プロイセン軍歌(この集収・編集ではプロ級)好きでも反戦、自公政権反対等々、小生と違って社会的な立場が違うので表には出しませんが、選挙ではいつもXX党に投票していたと話していました。安倍政権が倒れるまで頑張れと励ましていたのに残念至極です。
 三年前、京都でのD8会のあと、嵯峨野を案内した時、始めて来たと小倉山を眺めていたのを忘れられません。京都の良さを実感して貰えたのは、元京都市民として嬉しかったです。

彼に相応しい四行詩を見つけたので追加します。

風は飛泉を攪して冷声を送る、
前峯 月上がって竹窓明らかなり。
老来 殊に覚ゆ 山中の好きことを、
死して巖根に在らば骨も也た清からん。

藤田 友彦


OGACの記録をアルバムに

 卒業以来、外大山岳部とかかわったのは坂東君の事故死、村上君の不帰での事故、古田君の北鎌での事故と不幸な出会いばかりであった。後年、西前さんからOGACを作るので名簿の作成が必要なので、西川さんに協力してあげて欲しいといわれてあちこち手分けして名簿を集めたのを憶えている。
 チョゴリザ遠征では高橋、田村さんらからお誘いを受けて、微力ながらも資金集めをした。六甲山麓の作家・陳さんの自宅へもお伺いした。遠征後、活動記録を知り合いの印刷屋さんにご無理願った。先日まで本棚に20冊ほど残っていたが船井君に引き取ってもらった。
 その後、西前さんの処女作の出版記念会があると聞いていたが、初版が出る前に急逝され、出版会が追悼式になった。そして奥田さんが逝かれ、百瀬、高畠君までも先に逝った。
 大町集会のあとOGACが結成され、諸兄の活動は聞いていたが、両膝をいためたり、心臓弁膜症を患ったりで早々と登山からは引退していたためずっとご無沙汰のままであった。たまたま保野君から2011年新年会の案内を頂き、勝手知ったる篠山の温泉だったのでボタン鍋を楽しみに参加した。ここではじめて、昔の仲間の顔を見た。
 私はうかつにもこの時点では高橋さんの病気については何も知らなかった。以前と変わらぬ容貌、頑健、いいおっさん、のイメージであった。散会のあと、誰かから高橋さんの病気のことを聞かされた。そういえば、宴席で高橋さんからもっと山に登ったら、といわれて「心臓弁膜症なので・・・」と言い訳したら「どうせいつかは死ぬ。好きなことをできるうちにやったらいい。ぶつぶつ言い訳はするな」と一喝された。すでに病魔と闘っておられた高橋さんの強烈なメッセージだったと、いまになって気がつく始末で、無理してでもあちこちの山行のお供をしたかったと悔いている。
 さいわいカメラの趣味があったので2011年以来の参加行事の写真は多数保管してい
る。OGACホームページに掲示された皆さんの写真もダウンロードして「OGAC写真」として収録している。暇を見てはスライドショー式のアルバムとしてOGAC会員諸氏には配信してきた。ネット上でいつでも閲覧できるし、ご希望によってはCDにも収録でき、有料になるけどDVDにして普通のテレビでも見られる。
 現在、OGACのホームページで9月13日〜15日の「故高橋洵さんを偲ぶ会」の記録を3本のアルバムにして公開している。ほかに高橋さんの山行を収録したアルバムも数本アップしている。私にできる唯一の故人への追悼である。順次、OGACのアーカイブに収録していく予定なのでご照覧いただければ幸いです。

IN 昭和38年卒 広瀬州男

 

高橋さん、ありがとうございました

 私が入学した年に女子山行会が浮田さん、岩崎さんたちによって結成され、六甲山などでトレーニングをしていました。しかし、ひ弱な1年生だった私は、トレーニングだけで音を上げてしまい、あこがれの北アルプスどころか、比良山でのプレ合宿も尻込みしてしまいました。それで、夏山合宿を引率された4年生の高橋先輩のご指導を受ける機会を逃し、40年以上の後OGACができてはじめて親しくお話しできました。
 よく知らずに敬遠していた大柄で頑強な山男は、意外にも優しくみんなを気遣い、みんなに慕われる人格者でした。
 2012年6月の針ノ木雪渓では、私は体力不足の上に不十分な装備でアイゼンワークがまずく、一歩ごとにふらついたり、転倒したりで、前に進めなくなりました。高橋さんは、私の前を歩きながら、「ドシン、ドシンと踏むんや。どしん、どしん」といいながら、先導してくださいました。
 そのゆっくりとした、確実な歩みを見ながら、一生懸命にドシンどしんと歩くと、ようやく前進することができました。ころあいをみて、雪渓を見上げ、途中の岩屑のかたまっているあたりまで進んで待っているようにと指示されました。本隊の人々は山頂は無理でも尾根まではたどり着きたいというところでした。
 私は、自分のペースで上り続けました。えらく急な登りにため息をついたとき、ずっと上の方から高橋さんの声が飛んできました。
 「そこはあかん。左へ!ひだり!」
 先に行った高橋さんも他の人々も私の動きを見ていてくださったのでした。
 このあと、私は指示されたところで腰を下ろして本隊が戻るまで待ちましたが、本隊は稜線にたどり着くまでに高橋さんの下山の指示が出されました。時間切れでした。私のセイもあって申し訳なかったのですが、そういうことを言う人はおられませんでした。無事に下山し、私なりの山歩きをさせて頂くことができました。
 高橋さん、みなさん、ありがとうございました。
 そして、高橋さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

広瀬 逸子

 

奥様にも感謝

 偲ぶ会にも出席できなくて、本当に本当に心残りですが そのお陰か、まだお別れしていないような気持ちでおります。そして、今は私の脚が何とか登山に耐えられるうちに針ノ木岳の高橋さんのお墓参りをしたいと切に願っております。
 高橋さんに連れて行っていただいた沢山の山を思い出して 私なりに偲んでおります。又、高橋さんの闘病を深い愛情で献身的に支えてこられた奥様にも感謝しております。奥様の支えがあったればこそ、私たちを山へ連れて行っていただけたのですから。

芦沢 幸子

 

 

ただに逢ふは 逢ひかつましじ 彼の山に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ
       (集歌225 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲)
そのかみの 君の笑顔の哀しけれ いまの別れと たれか知るべき
青葉して 山懐に抱かれし 君の姿の 永久にやすけく 

たけと