歴史と特徴

京都・伏見の酒造りは非常に古い歴史をもっています。
しかし、政治の中心地にあったこともあり、何度も打撃を受けてきました。
それでも、それらの苦難を乗り越えながら発展し、今では灘と並ぶ二大生産地の地位 を築き上げました。
その京都・伏見の酒造りの歴史をご案内いたしましょう。

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■京都・伏見の酒

飛鳥時代〜奈良時代
平安時代
室町時代
江戸時代
明治時代〜現代

■日本酒の歴史

果実酒
「口噛み酒」について
米で作る酒の起源

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 灘と並ぶ酒造りの名所・伏見で酒がつくられるようになったのは非常に古くまで遡ることができます。

 

飛鳥時代〜奈良時代

すでに5世紀頃、朝鮮から渡来していた秦人(はたびと)は京都盆地に移住していて、現在の太秦の広隆寺一帯伏見稲荷神社一帯に拠点を築き、養蚕・織物・陶業などの高度な技術を広めました。 と同時に、酒造りの技法にも長じていた彼等は、大陸伝来の新技法を採り入れつつ、良質な酒も作りはじめました。

有名な松尾大社は、京都最古の神社で、古来「日本第一醸造祖神」として、今も全国の酒造家より幅広い信仰を集めていますが、もともとは、この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って、生活守護神と崇めていたものです。 その後、秦氏一族が松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、秦都理(はたのとり)が現地に神殿を建立しましたが、これが大宝元年(701年)であることを考えれば、京都・伏見の酒造りが大変古い歴史を持っていることがわかります。

平安時代

8世紀に入り平安京が造営され、大内裏に朝廷の酒をつくる役所「造酒司(さけのつかさ)」が設けられたときに、その実務にあたったのが、平安遷都にも大変な影響があったとされる秦氏一族でした。 そして、ますます京都の酒は発展していきます。

 

室町時代

京都の酒造りが最も栄えたのは室町時代で、応永22年(1415)の酒屋の名簿によると、洛中洛外あわせて342軒の造り酒屋があったことが記されています。その中でも伏見は嵯峨とともに洛外の酒の名所として名門酒屋が集まっていたところです。
 日本で最初の酒の銘柄(商標)が誕生したのもこの頃で、五条西洞院にあった「柳の酒屋」と呼ばれていた酒屋が、店の入口に大きな六星紋の入った暖簾を出し、酒樽にも同じ紋を入れて「柳酒」という酒銘を入れていました。
 その後、 京都の酒屋はこぞって酒銘を付けるようになりました。

江戸時代

また伏見は、文禄3年(1594)豊臣秀吉の桃山城築城後は、城下町として栄えてきましたが、江戸時代に入ってからと淀川水運の要地としてますます発展していきました。それと同時に造り酒屋も増加していきました。
 明暦3年(1657)には伏見の酒造家は83軒を数え、製造 石数は1万5610石にも達しました。
 ちなみにこの頃は、池田、伊丹の酒の全盛期でもあり、寛永元年(1624)に始まったとされる灘の酒造りは誕生したばかりといっていい時期でした。

 ところが、江戸時代中期以降、京の町の酒は、伊丹領主だった有力公家・近衛家が同家が庇護する伊丹の酒で独占されていまい、伏見酒の京の市中への進出が禁じられて しまうこともありました。
 関西で醸造され、江戸に運ばれた酒のことを「下り酒」といいますが、伏見の酒は、地の利の悪さが災いし、江戸への出荷もままならなかったところへ、江戸積廻船を利用した灘酒の急激な台頭を許してしまいます。
 そして、天保4年(1833)には伏見の酒屋は27軒(7197石)にまで激減してしまったのです。
 さらに、明治元年の「鳥羽伏見の戦い」が起こり、町の大半が焼失し、酒造もほとんど被災するという、最も大きな打撃を受けました。この時には、伏見の酒の生産量 は、1800石にまで減少しました。

 

明治時代〜現代

ですが、明治10年の西南の役以後、 社会も経済も安定しはじめ、明治22年、東海道線が開通 し、それまで2〜3週間もかかった東京への酒の搬送もたった1日で可能になった事が、京都・伏見の酒が息を吹き返すきっかけとなりました。
 もともと、酒自体が優秀であったため、東京への販路が拡大すると、以降、奇跡的な復興を遂げ、現在のような地位 を築いたのです。

■京都・伏見の酒

飛鳥時代〜奈良時代
平安時代
室町時代
江戸時代
明治時代〜現代

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