高橋洵さんの「青春の山 熟年の山」

−平成26年4月末に長野県大町市の高橋さんの別荘を訪ね、2日間、延べ約5時間にわたって「山」の話を聞かせていただいた。広い庭にはサクラ、ウメ、モモ、ユキヤナギが一度に咲きそろい、雪国の遅い春の訪れを告げていた。雨が降ったり止んだりする中で、高橋さんはセピア色の写真を見ながら古い山仲間の名前を一人一人あげて柔らかく、明るく語ってくださった。高橋さんの癌との闘いは6年におよび、すでに骨にまで転移していた。始終襲ってくる激痛を和らげるために医療用麻薬を服用しながら、文字通り命を削るようにしての語りだった。これまで冊子やメールなどに高橋さんが残された文章も再録しながら、半世紀を超える高橋さんの山との関わり、山を通しての多くの人との出会いを「青春の山・熟年の山」としてまとめてみた―

(齋藤清雄、由良薫)


山に入る 高校時代(昭和27〜30年)

 中学3年の時、学校の集中登山で常念岳に登ったのが最初の山体験ですね。「山がこんなに美しい、素晴らしいものなのだ」ということを知り、大町南高校に入学してすぐ山岳部に入りました。もともと男子校で、入学する1年前に共学になったばかり。同級生には女性徒は3人しかいませんでした。山岳部の先輩には、植村直己らと日本人としてエベレストに初登頂した(1970年5月)平林克敏氏や冬の谷川岳で名前を残した法政大山岳部のメンバーなど錚々たる登山家が多くいて、山でその名を売っていた高校でした。私らのころはそれほどでもなかったのですが、それでも国体の代表に必ず選ばれていました。

 自分らの教室が山岳部の部室の隣という因縁もあって、勇んで入部したのですが、1年目に遭難事故を起こしてしまいます。5月の連休に先輩と2人で白馬へ出かけ、2日目に白馬鑓へ下り始めた時、滑落したのです。温泉場まではまだ相当距離があったと思います。その時の装備は父親が戦地から持ち帰った、底がつるつるの軍靴に防寒帽といった寄せ集めだったのですが、どうしてかピッケルは持っていました。滑落した瞬間、雪に突き刺さっているピッケルが最後の残像で、すぐ気を失い、誰かがどこかで「タカハシ,タカハシ」と呼ぶ声に気付いた時、岩の窪みにキスリングがすぽっとはまって体が止まっていました。

 そこへ前夜白馬の山小屋で一緒だった岐阜薬科大の一行が駆けつけてくれて、血だらけで、全身を強打して動けない私をザイルで引っ張るようにして温泉場まで下ろしてくれました。その晩、私は雪の中に放っておかれたような状態でしたが、下山した先輩の急報で翌日、救助の人たちが登って来てくれました。一行の後ろ、ずっと離れたところに、ポツンと見えた親父の姿には声も出ませんでした。スキー板などで作った筏のようなものに乗せてもらって雪渓を下り、自宅に帰り着いたとき、親類の女性が喪服姿でやって来ているのにはびっくりしました。その日の朝刊に「瀕死の重傷」とデカデカと出ていたため、もう駄目だろうと思ったようでした。それほどの“大事件”でした。

 この遭難では、二つの反省点があります。一つは救助してくれた岐阜薬科大の人たちに何のお礼の挨拶もしていなかったこと。悔やんでも悔やみきれません。二つ目は、その後の山行にも通じることですが、「山は決してなめちゃいかん」ということ。これだけは痛いほど心に刻みました。というのも、この山行では、初日にメッチエンと出会い、この若い女性グループに後れをとっては、と急いだのがそもそも遭難の遠因と思えるからです。軽はずみな気持ちがあったのです。

 けがも癒え、山岳部に復帰しようとしたのですが、親父に反対されました。それでは、と野球部に入ろうとすると、野球では有名選手だった親父は「野球はそんな生易しいものではない」とこれにも反対。結局「あんな辛い目にあっても、山へ行きたいというのだから、好きなことをさせるしかないでしょう」というお袋の一言で、生涯続けることになる山への復帰がかなったのです。

 その後高校ではリーダーも務め、白馬から槍ヶ岳まで、北アルプスを北から南まで縦走したこともあります。5,6人でテントを担ぎ途中2カ所に食料をデポして、1週間以上かかったと思います。高校生にとって容易なことではなかった。冬の爺ヶ岳、五竜なども体験。5,6人で授業をさぼって鹿島槍へ出かけ、荒沢を下る途中日が暮れてビバーグ、学校や父兄が大騒ぎして大目玉を食ったこともあるし、針ノ木、鹿島・冷小屋のボッカも大町南高校山岳部の仕事でした。山岳部員がリーダーとなって一般の生徒を山へ連れて行くという学校行事もありました。


外大入学後山岳部を再建、軌道に乗せる(昭和31〜35年)

―「私にとってその青春は山に明け山に暮れたといっても過言ではない。私はこの一本槍青春を誇りに思いこそすれ少しも後悔などしていない」。大阪外大に入学して山岳部を再興(事実上の立ち上げ)したいきさつについては、大阪外大山岳部の「報告」創刊号(昭和48年3月31日発行)に掲載された「山岳部の再建の経緯」に詳しく、リアルに書かれており、これを転載して、その軌跡を辿る。◇以下に、当時の写真を見ながら語ってくれた「聞き書き」分を追加する―

 南アルプス縦走は2年がかりで2回に分けて行ったと記憶している。テントもシュラフもみんなアメ中(米軍払下げの中古品)で、何しろお金がなかったからバーナーも買えず、木を燃やして食事を作りました。食料も米、じゃがいも、玉ねぎといった重いものばかり。大鍋を落として大騒ぎしたこともあった。私が一番重い荷物を担いだと思います。それにしてもこんな写真がよく撮れていたもんだ。当時、カメラなどめったになかったのに。見ていると何とも言えない郷愁というか、なつかしさを感じますね。

 よちよち歩きを卒業して山岳部らしくなっていくとともに、より厳しい登攀を目指す上級グループと、一般登山を楽しむグループとに別れて行くようになりました。西前氏をはじめ田村、奥田氏らはぐんぐん岩登りの腕を上げて、山岳部員としてどこへ出しても恥ずかしくないレベルに達していました。目指す対象の山にも差が出て部員全体としての行動がとりにくくなる、ということありましたが、リーダーが一番重い荷物を担ぎ、あくまで楽しい山行をという伝統はこのころ確立されていたと思います。当時、社会問題にもなっていた“しごき”なるものは一切なかった。私自身は高校時代からあまりザイルの勉強をして来なかったせいか岩登りはそれほど得意ではなかったのですが、雪の斜面、雪壁には自信がありました。

 西前氏と不帰に入った時、斜面をさらさらと雪が落ちていくのを見て、雪崩の前兆ではないかとも思え、「このまま進むべきかどうか」3時間も議論したこともありました。結局、危険箇所を通過してから雪崩が発生し、肝を冷やしたものです。

 卒業して少し経った昭和38年ごろの冬、猿倉から杓子のG5だったと思うが坂東、齋藤、百瀬の各氏らの行動を見て、「外大山岳も成長したものだ。これならかつての上級グループに引けを取らない」と感心したことがあります。特に百瀬氏は底がパクパクするような靴で平気でラッセルしていたのには驚いた。皆が雪のテントでテキパキ動く姿が頼もしかったし、うれしかった。

 女子は、浮田(高井)さんや大前(西前)さんらが山岳部へ入部を希望し、担当の原助教授に掛け合ったのですが「男と女が一つのテントで寝るなどという、ふしだらなことは絶対だめだ」と許可されなかった、と聞いている。時々、六甲のトレーニングや夏山へついて来るくらいのことはあったが、本当の意味で一緒に山へ登るようになるのは、OBとしての山岳会ができてからです。


チョゴリザ遠征(昭和55(1980)年5〜8月)

―大阪外大山岳会は、初の正式な海外遠征として1980年5月、「大阪外国語大学カラコルム学術遠征隊」を派遣、田村俊介隊長以下10人がチョコリザ峰を目指した。登頂は果たせなかったものの途中、遭難したアメリカ隊の救助に当たり、その献身的な行動が内外の高い評価を受けた。詳細は「カベリ氷河からのチョコリザ遠征記」(OGACのHP掲載)に譲るが、高橋氏は事前の入山交渉などにあたった。そのいきさつを前記「チョコリザ遠征記」から転載するとともに、◇以下で聞き書き分を補足する―

 私は、チョコリザ遠征に関しては国内での打ち合わせ場所を提供するなど事前の事務局の役割と、現地での入山交渉にあたった。結果的に我々3人の入山交渉は失敗することになるのだが、イスラム教徒でありながら酒好きのアワン氏にそっと酒を贈ったら、喜んで受け取ってくれたエピソードも懐かしい思い出だ。政府高官だけに最大級の敬語を使ったつもりだったが、「SIR」の称号を付けなかったのはまずかったかな、と今にして思っている。

 また、初期の目的の「ガッシャーブルムU峰」に代わって、結果的にチョコリザの許可を得ることができたのは、偶然ラワルピンディで知り合った絨毯商の在日パキスタン人の尽力によるものであることは手記に書いた通りだが、人との付き合いはどんなことで生まれ、絆になっていくか分からない、ということを実感させられた。その“恩人”とも言うべきハミッド・ミル氏と、その後隊員の誰もが連絡を取り合あっていなかったのは今も心残りだ。

 さらに、あまり知られていないと思うが、この遠征のその後に関して、外大山岳会の歴史にとって特筆すべきことがあったので、少し話しておきたい。

 遠征から3年ほど経ってからだと思うが、アメリカ山岳会から、表彰したいのでぜひアメリカへお出でいただきたい、という連絡があり、田村氏と撮影を担当した波多野氏の2人で渡米、表彰を受けた。救助に携わった隊員にはメダルを授与されたらしく、外大山岳会にとって実に名誉なことであった。このことはOGACのホームページに載っていないし、知っている人は多くないと思う。ピークは逃したものの、この遠征を通してアメリカ山岳会と強い絆で結ばれたということ、こんな誇らしいことが山岳会の仲間にさえ知られていないということは、さびしい限りだ。ある意味で、アメリカ隊を救助したという事実よりもニュースバリューのある、外大山岳会にとっておそらく空前絶後のことではありませんか。

 また、こうしたビッグチャンスがあったにも関わらず、その後のアメリカ山岳会との交流が何もないというのも残念なことです。大学自体にとってもこの上ない名誉ですし、当時なぜ広く知ってもらおうとしなかったのか。もったいない、という気がしてなりません。

 この時のチョコリザ遠征については、後援してくれた朝日新聞の夕刊(東京版)に大きく載っているので、ぜひ見ていただきたい。


熟年登山

 42歳で脱サラ、事業が軌道に乗り出したあと、再び山へも行くようになる。きっかけは坂田氏らが音頭をとってくれて、平成9(1997)年4月、大町の私の会社に新しい工場に集まった、いわゆる「大町集会」だった。その時は、特にどこかの山へ登ろうということではなく、久しぶりに皆が顔を合わせて語り合おうと、持ち寄った酒を酌み交わし、各自持参のシュラフで寝るという集まりだった。その後、年に1回集まるようになり、中本、松下君らと横尾へ入った記憶もあるが、本格的に山登りを再開するのはもう少し後。大阪のメンバーを中心に今のOGACができ、西川氏から会長を引き継いだ平成18(2006)年ごろ以降のことです。

 平成20(2008)年5月の鹿島槍、10月の五竜▽21年の爺ヶ岳▽22年7月の唐松・不帰、10月の白馬大池▽23年夏の針ノ木、10月の船窪小屋▽24年4月の西穂、10月の妙高・火打▽25年の八ケ岳…と、毎年2回程度は山に入ってきた。女性が参加したのは20年の五竜が最初だったように思う。どこかの里山程度から始めようかと、皆さんに「行きたい山は」と希望を聞いたら、あにはからんや五竜だという。びっくりしたね。大学時代、許されなかった女性陣との山行がこうして実現し、以来高井さん、西前さんや広瀬さん、新たに加わった芦沢さんら女性陣はほとんどの山に参加してくれている。

 また、新年会は引き続き関西で行い、吉野山や福井・三方五湖、丹波・篭坊温泉、高槻・摂津峡などで飲み明かし、時に雪道の散策を楽しんだりした。会員の多くがリタイアし、暇もできたころで、毎回の参加者は結構多かったですね。

―2010年7月の不帰岳(村上泉君の遭難現場への慰霊登山および同年10月の大町集会(白馬大池)については、高橋さん自身の筆になる手記が残されているので以下に添付する―

「唐松〜不帰・泉のケルン」山行ご報告
OGAC会員の皆様

 不肖OGACの会長に任命された私としてかねてから懸案としていた故村上君の遭難現場への慰霊登山を、皆さんのご協力を得てようやくこのたび無事実現できたことここに謹んでご報告いたします。

 7/29集合場所とした唐松頂上山荘を目指して3組計10名が八方尾根を小雨・視界不良の中駆け登りました。翌7/30も前日からの雨が上がらず、体力に不安のある2名は山荘より遠く慰霊碑を遙拝して下山することとし、さらに唐松岳頂上からも1名が下山となりました。

 天候もあいにく悪化する一方で、この状況下不帰の険(山偏が正しいらしい)の踏破にやや不安があったがそこはさすがにみな山の経験者、難なく目的の慰霊碑の前に到着しました。12年前に修復された碑は、その作業にあたられた会員のご苦労に報いてどこも傷んでおらず安心しました。参拝して記念写真を撮った後ここで引き返す2名と別れることになりました。

 再度不帰の難所を越える二人の身を案じながら、5名は北に縦走を続けたが風雨ますます勢いを増し、手袋の両手も冷たくなるなか天狗山荘についたのが13時をとうに回っていたのでやむを得ずここで沈没となりました。その夜は大雨で翌日の好天を期待したが、早朝の出立時も雨は小止みとなったが風強く視界不良でちょっとがっかりでした。白馬鑓温泉への分岐点から信州側へ下山する頃から風弱まり、近くの視界も開け一息つきながら温泉に到着。日本一高所にある温泉につかり、長駆猿倉にたどり着き今回の追悼登山を無事終えることができました。

 この日まで悪天続きで視界も利かず、さらに分岐点から猿倉への下山路はぬかるみひどくまた予想外に長距離で長い時間を要したが、分岐点から小日向のコル迄の斜面には色とりどりの高山植物が色鮮やかに今を盛りと咲いておりわれわれの目を楽しませてくれました。

 さて私事で申し訳ないが、3日間山中を歩いた後で思い知らされたのは相当な体力の衰えです。悪天下の登山とは言え無茶苦茶疲れました。今後再度の挑戦は考えられません。しかしOGACの後輩である村上君や古田君を忘れたくはありません。今回は由良氏の音頭で追悼が実現できましたが、次はぜひ若手の諸君に託したいと強く祈念するところです。

 最後に今回の行事に参加くださった会員はもちろんとして、事情によりどうしても参加できずお気持ちだけでも寄せてくださった皆様方にあらためてお礼申し上げます。そして来る秋の軽山行でお会いできることを祈っています。

 2010年の大町集会には7名の参加者があり、10/1-3にかけて紅葉の白馬大池に遊んだ。期間の前後は雨天ないしひどい曇天だったが幸いこの三日間だけは好天に恵まれ、写真に見るごとく十分に山を楽しむことができた。

10/10/1

 14:00 大町駅より2台の車で栂池高原に向かう。この日泊まった温泉付きリゾートイン「ヤマイチ」にて出された夕食の山菜及び新鮮な自家栽培野菜のフレンチタイプの豪勢なコース料理には一同感嘆の声をあげる。特に天然のマイタケスープと天麩羅の素晴らしい香りには皆名前通り舞い上がった。写真にない最後のステーキ及びデザートまで十二分にその美味を堪能したのでした。宿泊料一万円。ヤマイチさんありがとう。

10/2

 8:00 快晴の中出発。ケーブルを乗り継ぎ栂池自然園入り口横の登山路に入る。今日の行程にはタップリ余裕があるので、遠く近くの景色を愛でながらゆっくり進む。広い天狗原の草紅葉の中で昼食。ここで藤田長老といったん別れる。天狗原から乗鞍岳までは大石が続く登山路で、後方下は紅葉輝く天狗原、さらに遠方遥か戸隠連峰から妙高まで望める中、慎重に歩を進める。乗鞍を過ぎるとやがて下方にまるで桃源郷のごとき大池小屋周辺が姿を現す。足に自信のある芦澤/大藤の両名は、小屋よりさらに小蓮華中腹に向かって足を延ばし、残りは喫茶室で談笑を楽しむ。

10/3

 この日も午前中は好天に恵まれ、順調に往路を下り栂池高原で待機していた藤田長老と合流後、大町の小宅近くの例のソバ屋で打ち上げの昼食をとり、女性陣と笹木氏が隣の温泉で汗を流すのを待って14:30無事解散となりました。

 最後に参加者全員の意見として、「今後はこれくらいの余裕を持ったやさしい山行がよい」という声をお伝えしておく。

 この辺の話はOGACのホームページに載っているから見てもらえばいいのですが、私にとっての熟年登山は、あくまで皆さんとの交流を主体に楽しく、楽しくということに尽きます。よく女性陣や大藤、坂田氏らから「高橋さんのおかげで楽しい山行ができました」というメールをいただくが、そうじゃない。私に言わせたら逆なんです。65歳を過ぎてから毎年春と秋に楽しい思いをさせてもらっているのは皆さんのおかげなんです。私一人だけ、あるいは甥の浩史郎とだけだったらこんな楽しい、いい思いは絶対残らなかった。こんな体になる前の数年間、ほんとにいい思いをさせてもらった。若いころ山をやっていたおかげで、何十年経って一緒に集まって山へ行ける、これはほんとにうれしかったね。中村、西川、大藤、高井、芦沢、大村、広瀬夫人…そのほか多くの皆さんと一緒に山へ行けた。皆さんに感謝したい。

 人生においてやることはすべてやり切った。何の悔いもない。

山についても、出来たら皆さんともう少し行けたらな、という気持ちはありますが、体がこんなことになったから仕方がない、と自分に言い聞かせています。

 私にとっての山は、余暇的なというか、楽しむことが第一。人生の主たる目的ではないんです。輝かしい大町南高校山岳部の伝統は誇らしく思っていますが、先にお話した先輩のように常に厳しさ、困難さに挑むという山を、私は目指してきたわけではない。例えば鹿島のかくね里北壁をやろうという気は全くなかったし、剱の壁も途中でやめています。

 そういう挑戦的な山ではなく、山のきれいな雰囲気に身を置いてその空気を存分に味わいたい、というのが終始変わらない私のスタイルです。特に、熟年登山として再開してからは頂上とか、どこまで行く、というわけではなく、行けるところまで行けばいい―。もっぱらこういう登山です。皆さんと針ノ木や西穂へ行く前、一人であるいは浩史郎と二人で鹿島の北股本谷、西沢や針ノ木の雪渓などへぶらっと出かけたりしています。雪と風を確かめてみたい。ただそれだけで十分なのです。そういう雰囲気に浸ることが楽しいんです。行ってみて、北股本谷は皆さんを案内するのは向かないかなと考え、西穂を選んだ。それも丸山までで雪も風も十分味わえました。途中で引き返しても、残念という気は全くない。

 平成25年3月、女性2人を含む6人で黒百合ヒュッテから中山峠、天狗岳を目指した八ケ岳が最後の山になりました。

Subject Contents
70 2013/3/17-19 八ヶ岳 2013年3月17日〜19日 渋御殿温泉(泊)〜黒百合ヒュッテ(泊)〜中山峠〜天狗岳(強風のため撤退)〜下山(高橋洵・大藤勲・芦沢幸子・高井和子・斉藤清雄・高橋浩史郎・由良薫)
69 第1回南アルプス(昭和32年夏)
第2回南アルプス(昭和33年夏)
一般募集登山
スキー合宿
昭和32年夏〜33年夏にかけて山岳部結成時の写真を掲載しました(高橋会長提供・2013/2/17)
68 2013/1/19-20 新年会 2013年1月19日〜20日 新年会 淡路島・諭鶴羽山(高橋・高石・藤田、永淵・坂田・田村・大藤・竹岡・由良・斉藤・船井・上島・廣瀬・廣瀬逸・山田)
67 2012/10/14-16 妙高・火打山
高橋会長より
2012年10月14日〜16日 笹ヶ峰〜高谷池〜火打山(高橋・大藤・高井・芦沢・大村・笹木・広瀬逸・吉永・由良・斉藤・永渕・高石・藤田・高橋浩)
62 2012/4/7-9 西穂 2012年4月7日〜9日 西穂(高橋洵・高井・西前・芦澤・由良・斉藤・小林・高橋浩)
57 2012/1/14-15 新年会 2012年1月14日〜15日 高槻・摂津峡山水館・ポンポン山ハイキング(15名参加)
54 2011/10/1-3 船窪小屋(1)
2011/10/1-3 船窪小屋(2)
2011年10月1日〜3日 大町〜七倉〜船窪小屋(泊)〜七倉(高橋会長・小林・西前・芦澤・高橋浩)
50

2011/6/6-8 針ノ木大雪渓(1)


2011/6/6-8 針ノ木大雪渓(2)
(笹木氏撮影分 56カット)

2011年6月6日〜8日 針ノ木大雪渓(高橋・西川・大藤・中村・笹木・高井・西前・芦澤・広瀬逸)


被写体は稜線に手の届く急斜面から時間切れにより下山を開始した場面です。
登りで一番強かった大藤大将が下りにもたついているのがおかしかった。先頭から高 井、笹木、芦澤、西前、大将の順です。
48 2011/5 針ノ木大雪渓 5月第3週の針ノ木大雪渓(高橋氏)
46 2011/5/7 カモシカ

びっくり仰天。2011年5月7日大町の高橋家の庭にカモシカが出現。以下高橋氏のメール。


今日7日鹿島槍の西沢と北股本谷の両方を詰めてきた。但しいずれも三分の一ぐらいでUターン。
イヤー驚きました.登り始めて間もなく山親父(カモシカ)を見たはよいが、下山して自宅についてみるとなんと彼も付いてきて帰宅し(?)ているではないか。
これってどういうこと? 庭のニシキギの新芽を味わってからまた山へ戻って行った
44 2011/4/9-10 西穂独標 2011年4月9日〜10日 新穂高〜西穂山荘〜西穂独標
(高橋洵・高橋浩)
41

2011/1/15-16 新年会
 〃 追加 photo

2011年1月15日〜16日 篠山・篭坊温泉・湯の壷〜弥十郎岳・農文塾分岐 (17名参加)
38 2010/10/1-3 白馬大池 (笹木氏撮影)
2010/10/1-3 白馬大池 (高井さん撮影)
2010年10月1日〜3日 秋の山行(白馬大池・白馬乗鞍岳)(高橋・大藤・笹木・藤田・高井・西前・芦沢)
34 2010/7/29-31 唐松・泉のケルン行 2010年7月29日〜31日 唐松頂上小屋集合(泊)〜不帰・泉のケルン〜天狗山荘(泊)〜白馬鑓温泉〜猿倉(高橋洵・大藤・由良・保野・上嶋・芦澤・藤田・永淵・高橋浩・高石)
30 2010/5/16 百瀬氏を偲んで山行 海谷山塊・鋸岳>5月15〜17日(高橋会長・保野・上島・他1名)  15日:雨飾山荘集合、山麓散策、16日:鋸岳往復、姫川温泉泊
廣瀬氏より百瀬氏への思いを綴った寄稿です。こちら
24 2010/1/9-10 新年会 2010年1月9日〜10日 福井県三方五湖「虹岳島荘」/三方石観音奥の院
23 2009/10/10-12 大町集会 2009年10月10日〜12日 葛温泉泊〜扇沢〜柏原新道〜種池小屋泊〜爺ヶ岳
21 2009/7/18-19 古田君慰霊碑行 2009年7月18〜19日 高瀬川・湯俣温泉〜古田レリーフ行
内1名)19〜20日 湯俣〜竹村新道〜野口五郎〜烏帽子小屋泊〜下山
19 2009/1/10-11 新年会 2009年1月10日〜11日 夢絃峡温泉「鶴乃家」/鷲峰山
18 2008/10/11-13 大町集会 2008年10月11日〜13日 遠見尾根〜五竜小屋泊〜五竜岳
16 2008/1/12-13 新年会 2008年1月12日〜13日 島崎藤村ゆかりの宿「吉野温泉元湯」/台高・明神平
15 2006/5 大町集会 吉永行夫氏提供(2006年5月)
「最近亡くなられた御三方の記念写真が見つかりました。 06年大町集会時の大渚山山麓鎌ケ池と宿でのスナップです。」(高畠氏・百瀬氏・奥田氏の3氏の写ったスナップです)
10 2000/5/20 大町東西合同集会 中村佳典氏撮影(デジタルカメラ)